「人を助けるより、利益が先に来る」。そんな採用の現場を6年見続けた末に、ダニエルは強い違和感を抱えたまま働いていた。
信頼が削れていく。大事なお客を失う場面もある。このまま同じやり方を続けたくない——そう思っても、次の一歩は怖い。けれど彼は、そこで立ち止まらなかった。
会社を辞め、理想を形にするために「会社」と「慈善団体」を同時に立ち上げる。顔の見えない大企業が相手でも、武器は“共感”だった。その選択は、やがて売上と若者支援の両方を前に進めていく。
顔の見えない大企業に勝つ武器は、「共感」を中心にした会社づくりだった
ダニエル・ボールは、子どものころから母親にこう言われて育った。
「世の中の良いものは受け取りなさい。でも、受け取るだけじゃなくて、もっと良くすることもできる」
18歳で社会に出たとき、ダニエルは信じていた。会社もきっと、人を大事にして動いているはずだ、と。
ところが現実は違った。人材採用の業界で6年働くうちに、助けることより利益を優先する会社を何度も見た。お客にとって大事なことより、売上や手数料が先に来る。そんな判断が続くと、信頼は消える。実際に、高い報酬をくれる大事なお客を失う場面もあった。
「このまま同じやり方を続けたくない」
そう思ったダニエルは会社を辞めた。そして、自分の理想を形にするために、会社と慈善団体の両方を立ち上げることにした。
若者の未来を支える、2つの仕組み
ダニエルの挑戦は、最初から2本立てだった。
1つ目:財団で、チャンスを渡す
慈善団体「The Early Careers Foundation」では、収入が少ない家庭の若者が、企業の世界を知れるように支援する。中心になるのはメンター制度だ。社会人が伴走し、働くことやキャリアの考え方を教える。
協力企業にはセールスフォースやブリティッシュ・エアウェイズのような大手も入った。さらに、大学の学費を助けるための助成金も用意した。
2つ目:会社で、企業の採用を作り変える
もう一つが「The Early Careers Company」。こちらは企業向けの仕事だ。若手を採用し、育て、長く働いてもらうための仕組みを点検し、直していく。
特に大事にしたのは、収入が少ない家庭の出身者など、いろいろな背景の若者が活躍できる採用に変えることだった。
実際にやる仕事は、たとえばこういうものになる。
- 若手採用の仕組みをチェックし、改善点を出す
- 新しい採用・育成プログラムを設計する
- 選考方法や評価のルールを作る
- 採用キャンペーンを運営する
数で勝負しない。質で勝負する
ダニエルの戦い方は、最初から決まっていた。
「案件をたくさん回して稼ぐ」ではなく、「一つ一つを深くやる」
丁寧で手厚い支援を受けた企業は満足する。そして、より大きな契約で戻ってくる。評判が広がり、気づけば大企業との高額契約にもつながっていった。
企業が驚いた理由はシンプルだ。採用業界には「売ること中心」の会社が多い。サービスの質より契約と手数料が優先され、経験の浅い担当が回されることもある。そんな体験に慣れている企業ほど、丁寧な支援の価値が刺さった。
ダニエルの会社は、相談しやすい連絡体制を作り、社内に入り込むように一緒に動いた。単なる人材紹介ではなく、採用の仕組み全体を良くするところまで踏み込んだ。
成長の中心は、新規営業ではない。既存のお客が「また頼みたい」と継続してくれたことだった。
専門家の道を捨て、創業者の道へ
ダニエルは一時期、イギリスの有名大学で脳科学を学ぶ話もあった。母親が心理学者だったこともあり、その道に進む未来も見えていた。
でも、直前で進学をやめた。いったん立ち止まり、自分の進路を考える時間を取った。
2014年、その空白の時間のスタートとして、若手採用や企業のイメージづくりを支援する会社でインターンを始めた。そこから役職が上がり、会社が少人数から100人規模に成長していく過程を中で経験する。
働き方、会社のお金の見方、チームの動かし方。現場で全部学んだ。創業者の近くで働いたことで、「会社を立ち上げて育てる」感覚も身についた。
そして世の中が大きく揺れた時期をきっかけに、独立を決めた。短い結果を追うより、長く価値を生む仕組みづくりに集中できる会社を作りたかった。
「待つ時間」を、準備の時間に変える
前の職場との契約の関係で、同じ分野で新しい事業を始められるまで6か月待つ必要があった。
普通なら焦る。だがダニエルは、その6か月を準備に全部使った。
価格の決め方、サービスの形、発信の材料、合言葉、会社の価値観。社内の成長の仕組み、給料の考え方、事業計画まで。開始日に「全部そろっている状態」を目指して整えた。
貯金は多くなかった。失敗すれば痛い。それでも、開始したその日に、以前の取引先が話を聞きに来た。そして契約が決まった。1週間以内に入金があり、短い期間で売上が積み上がっていった。
価値観を先に置くと、売上は後からついてくる
新しいお客が増え始めたタイミングで、ダニエルは以前一緒に働いたゾーイを採用した。必要な道具はクレジットカードでそろえ、少人数で走り出した。
ゾーイが実務を担うことで、ダニエルは発信、関係づくり、新サービスづくりに集中できた。
さらに、過去のつながりが紹介や相談につながった。発信を見た人から連絡が増え、「一緒に仕事がしたい」という声が開始直後から届いた。
採用業界は売上中心になりやすい。目的や価値観を前面に出す会社は少ない。だからこそ、ダニエルの会社が掲げた「若者の人生を良い方向へ変える」という目的は目立った。その姿勢が信頼になった。
結果として、企業の満足と若者支援の両方を進めながら、売上も伸びた。1年目の終わりには大きな売上を達成し、事業で得た資金で財団の活動も広げていった。
急成長の裏で、会社が苦しくなる
2022年の初め、需要が一気に増えた。ダニエルは採用を急ぎ、営業、広報、採用支援の担当者を増やした。拠点もロンドンとムンバイに広げた。高額な契約の話が来ると、断らずに受け続けた。
ただ、急成長には代償があった。品質を守るために長時間労働が続き、夜遅くまで働く日も増えた。働き方も出社中心で、週5日オフィス。体力が削られていった。
さらに、契約が落ち着いた時期に別の弱点が見えた。サービスを提供する体制は整っている。でも、新しいお客を増やす仕組みが弱い。
これまでは既存のお客が継続してくれることで回っていた。だから、新規開拓の流れを作れていなかった。その結果、売上が落ちる月が出て、年間の数字も当初の予想ほど伸びなかった。
その後、改善の手順を整え、立て直しに向かった。
ここで残った学びははっきりしている。成長期は、目の前の仕事をこなすだけでは足りない。新しい仕事を取り続ける力と仕組みも、同時に作らないといけない。
いつか会社を売る未来も考える
事業が安定に向かう中で、ダニエルは長期的に会社の売却も視野に入れている。長時間労働をずっと続けるのは難しい。慈善活動にもっと時間を使いたい思いもある。
ただし条件がある。売却する相手は、利益だけではなく、会社の目的や考え方を大切にする組織でなければならない。
世の中の仕組みを使いながら、それを少しでも良くする。数字だけを追わず、人と人のつながりや共感を重視する。そして得た利益を社会に返す。
その姿勢こそが、顔の見えにくい大企業と戦うときの強い武器になった。
