一生懸命に勉強したのに、気づけばほとんど覚えていない。テストのために詰め込んで、終わった途端に抜け落ちていく。そんな停滞感に、心当たりがある人は多いはずだ。
アレック・クレッチも大学時代、同じ壁にぶつかった。努力した時間が砂のようにこぼれていく感覚。そこで彼は「暗記」ではなく「定着」を仕組みで支える道を選ぶ。
バリ島での節約生活から始まり、教室で壊れたらその場で直す試行錯誤を重ねた先に、OpenClassは世界へ広がっていく。試験運用から約2年で課題投稿10万件、2022年12月には25万件に到達するまでの道のりには、地味でリアルな転換点がいくつもあった。
学んだことは、放っておくと消えていく
数学で習った公式を、今すぐどれだけ言えるだろう。いくつかは思い出せても、多くは復習しないまま時間がたつと薄れていく。人の記憶は、放っておけばどんどん抜けていくようにできている。
アレック・クレッチも、それを身をもって知った。アリゾナ大学の学生だったころ、テストでいい点を取るために何時間も勉強した。それなのに授業は次の単元へ進み、前の内容は置き去りになる。学期末の試験前にまとめて詰め込んで、試験が終わる。数週間後には、また忘れている。努力した時間が砂みたいに指の間から落ちていく感覚だった。
アレックは先生や授業のせいにはしなかった。問題はもっと根っこにある、と考えた。どうすれば、人は学んだことを忘れにくくなるのか。そこから認知神経科学の研究を読みあさり、学びを「思い出す練習」で支える仕組みを形にしようとした。それが学習ツール「OpenClass」につながっていく。
OpenClassがやりたいのは「暗記」ではなく「定着」
OpenClassの中心にある考えはシンプルだ。前に学んだ内容を、あとからもう一度扱う。授業が先へ進んでも、過去の単元を自然に呼び戻す仕組みを入れる。短期間の丸暗記ではなく、理解して身につけるための設計になっている。
しかも、復習は一律ではない。以前のテストでつまずいた分野があれば、そこに合わせて問題やクイズを調整できる。苦手を放置せず、必要な場所に戻れる。学びを「前に進むだけの一本道」にしない発想だった。
アレックは強い確信を持ち、2017年の卒業前にはサービス名のドメインまで押さえた。ただ、すぐ起業したわけではない。まずはシリコンバレーで働き、経験を積み、資金も貯めた。準備の時間だった。
高収入のシリコンバレーで、「このままじゃない」と気づく
シリコンバレーの暮らしは華やかに見える。給料は高く、人脈も広がる。アレックもその良さは感じていた。
ただ同時に、別の現実もあった。長い通勤で疲れ切って帰宅し、気づけば毎日が消耗戦になる。仕事そのものが嫌いなわけではないのに、心は別の方向へ引っ張られていく。教育の分野で何かをしたい、という気持ちが強くなっていった。
週末になると、カフェでノートを開いた。教育向けのソフトウェアのアイデアを書きためた。大学では心理学とコンピューターサイエンスを学んでいたから、学び方が記憶にどう影響するか、研究を現場にどう落とし込むかを考えるのは自然だった。
そしてあるとき、決めた。副業で少しずつ作るのではなく、仕事を辞めて、開発にすべてを振る。
節約生活のバリ島で、3か月で試作品を作る
アレックが選んだ場所はインドネシアのバリ島だった。理由は現実的だ。生活費が安い。ネットが速い。部屋でも海辺でも働ける。貯金を切り崩しながら、徹底的に出費を抑えた。航空会社のポイントも使い、移動費も小さくした。
さらに時差が味方になった。アメリカと時間がずれているから、日中は連絡が入りにくい。集中を邪魔されず、丸一日を開発に使える。そこで約3か月で、MVPと呼ばれる最小限の試作品を作り上げた。
次に必要なのは、実際の教室で使ってもらうことだった。アレックはアリゾナへ戻り、大学の元教授に試してもらう動きに出た。
本物の授業で試し、壊れたらその場で直す
きっかけは学生時代に受けた「自然言語処理」の授業だった。2019年、アレックは教授に連絡し、意見を求めた。そこから紹介されたのがガス・ハーン=パウエル。以前はティーチングアシスタントで、のちに講師として授業を担当していた人物だ。
オンラインで話した結果、ガスは2020年春学期にOpenClassを試験導入することを決めた。アレックは学期のはじめ、何度も研究室へ通った。動作確認と修正の繰り返しだった。
現場は甘くなかった。課題が最後まで提出されない。成績に反映されない。途中で止まる。トラブルだらけだった。
それでも、この段階で実際の困りごとを目の前で見られたのは大きかった。何を直すべきかが一気に明確になった。小さな規模で問題を出し切り、改善できたことが、その後の成長の土台になった。
パンデミックが、道具の価値をはっきりさせた
2020年の途中で授業がオンラインに切り替わると、OpenClassはガスにとって欠かせない道具になった。他の教員がオンライン移行に苦戦する中でも、ガスは以前と同じように復習課題を作り続けられた。
この経験は、対面でも、ハイブリッドでも、オンラインでも使えることを示した。世界中で教育にテクノロジーを入れる動きが強まり、改善の余地が大きいことも見えてきた。
アレックは試験導入を広げた。ガスの授業を受けた学生の中には、別の授業で教える立場の学生もいて、自分の教室でも使いたいと言い出した。ガスが同僚に勧めたことも追い風になった。アレックは多くの教員に連絡し続けた。
2020年秋には合計10クラスでOpenClassが使われるようになり、アリゾナ大学以外の大学にも広がり始めた。
売上の壁を越えるため、大学の外へも動く
大学や学校がソフトを買うとき、組織としての契約になることが多い。すると承認に時間がかかる。良いものを作っても、売上が立つまでが遠い。
そこでアレックは別のルートを探した。プログラミングやデータサイエンスのブートキャンプのような新しい教育機関だ。こうした組織は意思決定が速い。責任者と短いオンライン会議をして、20〜30分で導入が決まることもあった。
入金が始まると勢いがついた。デジタルスキル系のスクールや別の教育プログラムにも広げ、受講登録した学生数に応じて料金を支払う仕組みも整えた。その間に大学側の承認も少しずつ進み、利用者と売上は伸びていった。
冷たい反応に折れず、売り込みの技術を磨く
OpenClassの説明は2020年を通じて磨かれていった。教師がクイズや授業内容、復習課題を作れること。過去のテストで点が低かった分野の復習を授業計画に組み込めること。こうした強みを具体的に伝えるようになった。
ただ、売り込みは簡単ではない。最初はメールや電話から会話を始めること自体が難しかった。返事が来ないことも多い。だから工夫が必要だった。連絡の自動化、学校内で複数の担当者に当たること、継続してフォローすること。地味な改善を積み重ねていった。
否定的な言葉にも出会った。教育の未来ではない、学校に合わない。そう言われることもある。そこで必要になるのは、反論のうまさより、折れない心だった。
情熱が、踏みとどまらせた
トラブル対応も、冷たい反応も、アレックは飲み込んだ。OpenClassの開発と改良を続けた。目的は明確だった。教育を良くすること。それを最優先にし、長時間働く生活を選んだ。
情熱がなければ、もっと楽で高収入の道に戻ることもできたはずだ。それでもアレックの中では、教育の課題を解決したい気持ちのほうが強かった。やめたいと本気で思うことはなかったという。
世界の教室へ広がり、加速していく
OpenClassはアメリカだけにとどまらない。ブラジル、インドネシア、南アフリカなどでも使われ始めている。より多くの生徒と教師を助けるため、世界規模で広げようとしている。
試験運用が始まってから約2年で、OpenClass上に投稿された課題は10万件に達した。増え方は止まらず、2022年12月には25万件になった。
売上も伸び、年に約4,500万円〜約7,500万円規模(数十万ドル規模)を目標に機能追加や営業を進めている。事業を大きくして売却することより、できるだけ長く教育の改善に取り組み続ける考えが強い。
毎日OpenClassを改善し、学びの機会を広げる。それがアレックのやりがいになっている。利益より情熱を選んだ決断が、教室の未来を少しずつ変え始めている。
