380万ドルの買収から、世界で3万店超。規模は900億ドル級へ。危機のさなかには、米国内の全店舗を1日閉めてでも「一杯の質」を教え直した。
だが出発点は、豆を売る小さな店を「いい店にしたい」という願いだけではなかった。反対され、資金が尽きかけ、夢を語るほど現実が遠のく局面で、何を捨て、何を手元に残すのか。ハワード・シュルツが信じた「第三の場所」という体験は、どうやって所有と仕組みに変わり、桁違いの拡大を呼び込んだのか。
公営住宅の7階で覚えた「セーフティネットがない怖さ」が、後の経営判断の芯になった

ハワード・シュルツは1953年、ニューヨーク州ブルックリンで生まれた。家族が暮らしたのは、連邦補助の公営住宅ベイビュー・ハウジズだった。建物には約150世帯が住み、小さなエレベーターは1基だけ。シュルツの家は7階の狭い2ベッドルームで、上り下りひとつにも時間がかかる場所に、一家の生活がまるごと押し込められていた。
家の中はいつも、お金の問題で張りつめていた。金銭問題の「絶え間ないストレス」とともに日々を過ごし、公営住宅住まいのレッテルに、怒りと恥を感じていた。外の世界に出るたび、住所や服装や言葉づかいが勝手に値踏みされているように感じた。
父親はタクシー運転手、トラック運転手、工場労働者など複数の仕事を掛け持ちし、同時に2つか3つこなしていることもあった。働いても働いても、生活が安定に向かわない。そんなある日、父親は仕事中に足首を骨折し、医療給付も補償もないまま解雇された。働けなくなった瞬間に暮らしが立ち行かなくなる。その怖さが、家庭の中で具体的な出来事として刻まれた。
シュルツ自身も早くから働いた。12歳までに新聞配達を始め、その後は地元の軽食店でカウンター業務をした。16歳のときには放課後にマンハッタンへ通い、毛皮業者で動物の皮を伸ばす仕事をして、皮1枚あたり5セントを稼いだ。ニット工場で糸を蒸す仕事もしており、過酷な労働環境だったと本人は語っている。学校が終わったあとに別の場所へ移動し、同じ姿勢で同じ作業を繰り返して家に戻る。体力より先に、暮らしの厳しさに耐える力が試される日々だった。
稼ぎの一部は母親に渡した。家計の苦しさが分かっていたからで、誰かに言われたからではない。父親の骨折と解雇、金のストレス、働き口の不安定さ。働くことは単なる労働ではなく、家族が食べていけるか、誇りを保てるかに直結していた。そんな環境で育つうちに、シュルツの中に「働くことには尊厳がある」という感覚が根づいていった。
売る力を先に身につけた。アイデアより先に「説得する力」を鍛えた日々

高校ではアメリカンフットボール部のクォーターバックを務めた。生徒数が約6,000人規模の高校でその役割を任された経験は、人目にさらされる立場で味方を動かし、失敗の責任も引き受ける訓練になった。
転機は、ノーザン・ミシガン大学のリクルーターからフットボール奨学金の提示を受けたことだった。シュルツはそれを受諾し、大学進学を果たす。コミュニケーションを専攻し、家族で初めて大学を卒業した。言葉で相手を納得させる学びは、後に、自分の考えを周りに認めてもらう場面で大きな武器になった。
卒業後はニューヨークのゼロックス営業部門に入社し、3年間にわたり営業・マーケティング・プレゼンテーションの技術を磨いた。商品そのものよりも、疑ってかかる相手や、そもそも関心のない相手をどう動かすか。その力が毎日の営業で鍛えられていった。1979年ごろには結果を出す営業マンになっていた。だが本人の中には、どこか満たされない思いも残っていた。
その後、スウェーデン企業パーストープに入社し、同社のプラスチック製の家庭用品をつくる子会社ハマープラストで、米国部門の立ち上げを任された。採用後はスウェーデンで3か月の研修を受け、現場のやり方を体で覚えてから、米国側の運営に戻った。やがて副社長兼ゼネラルマネジャーに昇進し、事業を立ち上げ、回し続ける責任まで背負った経験は、後に大きな構想を語るときの裏づけになっていく。
「豆を売る店」だったスターバックスで、違和感を確信に変えていった

1981年、シュルツは自社のハマープラスト製ドリップ式コーヒーメーカーを、シアトルのスターバックス・コーヒー・ティー・アンド・スパイスが異常に大量発注していることに気づく。なぜそんなに必要なのか。気になって足を運ぶと、そこにあったのは豆と器具を売る小売店だった。当時まだ世の多くが想像するようなカフェではない。
店は小さかったが、事業としての形はしっかりできていた。創業から約10年で5店、従業員は85人。焙煎施設を持ち、シアトルの地元商店に豆を卸す事業も回していた。最初の店舗で触れた創業者たちの情熱は、商品知識の量や作法の細かさというより、「コーヒーのロマンス」をまるごと売っているように見えた。
ただ、その熱量の中心にあったのは一杯の飲み物ではない。後にシュルツが強調したように、1971年から1985〜1986年ごろまでのスターバックスはコーヒー豆(ポンド単位)だけを売っており、飲み物はなかった。客が店で体験するのは香りと会話と買い物であり、長居する場所でも、毎日寄る習慣でもなかった。
それでもシュルツは、その小さな店に強い引力を感じた。1982年、スターバックスにマーケティング・ディレクターとして入社する。1982年時点のスターバックスは「3店舗の小さなチェーン」とも語られるほどで、まだ内部から変えられる余地がある規模に見えた。
だが、内部に入っても変化は簡単に通らなかった。創業者たちは当初この転換に抵抗し、高品質な豆と器具の販売に集中することを望んでいた。店の魅力を外に広げたいシュルツと、いまのやり方を守りたい創業者の意思は、真正面からぶつかり続けた。
ミラノで見たにぎわいを、会社を辞めて自分の店で再現してみせた

創業者たちの理解が得られないなら、外から証明するしかない。そう腹を決めるきっかけになったのが、1983年のミラノ出張だった。シュルツはイタリアのエスプレッソバー文化に触れ、コーヒーがただの飲み物ではなく、街の人が立ち寄って言葉を交わすコミュニティの核になっている光景を見た。
持ち帰ったのは、豆と器具を売る小売の延長ではなかった。手作りの飲料と、そこに集まる空気そのものを核にした店。家でも職場でもない「第三の場所(third place)」として、日常の中に居場所をつくる構想だった。スターバックスをその方向へ転換できれば、店の価値は大きく変わる。だが社内で構想を語っても、周りはそこまで乗ってこなかった。
そこでシュルツは、社内で通らないなら外に出て自分でやるという選択に踏み切る。1985年にスターバックスを退社し、コーヒーハウスチェーンのイル・ジョルナーレを創業した。会社の看板や既存の枠組みに頼らず、第三の場所という考え方が米国でも成り立つかどうかを、自分の店で示すための一歩だった。
店をつくるには資金が要る。シュルツはイル・ジョルナーレ設立のために150万ドルを調達した。構想を語るだけの段階から、資金を集めて店として形にする段階へ移ったことで、その賭けは一気に、後には引けない重みを帯びた。
だが、その重い賭けはすぐに報われた。イル・ジョルナーレは即座に成功した。社内で議論しても動かなかったものが、外に出た途端に成功として形になった。「第三の場所」は個人の好みや理想ではなく、客が実際に足を運ぶビジネスとして成り立つ。それが証明され、次の一手につながっていった。
380万ドルの買収から、3万店超と900億ドル規模へ。品質を守るために全米閉店もやった

1987年、ハワード・シュルツはスターバックスを380万ドルで買収した。スターバックスとイル・ジョルナーレを統合し、スターバックスの名前で拡大を始める。当時の店舗はわずか11店。そこから世界3万店超へと広がっていく。
拡大は勢いだけでは続かない。店舗数が増えるほど、同じ体験を同じ品質で繰り返す仕組みが要る。スターバックスは80か国超で39,000店規模に到達し、未使用のギフトカード残高として常時17億ドルを保有している。
会社の大きさはそのまま数字に表れている。スターバックスはおよそ900億ドル規模の企業になっている。豆を売る小さな店を買った380万ドルから、世界中の街角に同じ看板が立ち、客がギフトカードに前払いしたお金だけで17億ドルたまるまでに、事業の桁はいくつも変わった。
一方で、拡大は常に順風ではなかった。シュルツは2000年にCEOを退任し、その後は会長やチーフ・グローバル・ストラテジストなどの役割に就く。だが2008年、景気悪化と社内課題のさなかにCEOとして復帰する。会社が大きくなるほど、現場で出す一杯の質から離れていく。その流れに歯止めをかけるための復帰だった。
復帰後の初期施策は、象徴的であると同時に、現場の行動を変えるものだった。バリスタのエスプレッソ再訓練のため、米国内の全店舗を1日閉店した。さらに業務の合理化と不採算店舗の閉鎖にも取り組んだ。閉める決断と教え直す決断を同時に進め、会社の軸を店の数から一店ごとの中身へ戻した。
この立て直しは市場の評価にもつながった。2008年のCEO復帰以降、スターバックス株は16倍に値上がりした。シュルツは2018年にエグゼクティブ・チェアマンおよびCEOの役割を退くが、380万ドルで買い取った一軒の店は、拡大の仕組みと危機への対応を通じて、3万店超の現実と900億ドル規模の存在感にまで育っていた。