旅行市場が止まり、伸びかけていた事業の売上がほとんど消えた。フルタイムで挑戦してもお金が入らない。そんな状況の中で、夫婦はもう一度「次に作るべきもの」をゼロから考え直した。
生活も仕事も同じチームで進めるのは強い反面、失敗すれば暮らしまで揺らぐ。不安や迷いを抱えながらも、2人は“いつも使っているのに好きになれない道具”に目を向けた。
そして生まれたのが、無料で使えるシンプルなフォーム作成ツール「Tally」だ。広告費をかけずに利用者を増やし、月の継続売上は約450万円($30,000)へ。夫婦で会社を回しながら、次の段階も見え始めている。
人生のパートナーが、いちばん近い共同創業者だった
スタートアップでは「誰と組むか」で未来が決まることがある。仲が悪くなって会社が止まる話も珍しくない。だからこそ、多くの人は共同創業者探しに時間をかける。
でも、答えが最初からすぐそばにあることもある。
マリー・マルテンスとフィリップ・ミネフは、生活でも仕事でもパートナーとして動く夫婦だ。2人は無料で使えるシンプルなフォーム作成ツール「Tally」を立ち上げ、世界中に利用者を増やしていった。
ただ、同じ家で暮らしながら同じ会社を動かすのは、きれいごとだけでは済まない。うまくいけば強い。けれど、失敗すれば生活まで崩れる。2人も最初から順調だったわけではない。
コロナで、最初の事業を手放した
Tallyを始めたのは2020年の終わりごろ。マリーはベルギーを拠点に、BtoBマーケティングの経験を積んできた。メディアやテック企業で働き、売り方や広げ方を考えるのが得意だった。
フィリップは技術側の人間で、プロダクトを作る中心になる。役割がはっきり分かれていたのは、2人にとって大きな武器だった。
ただ、Tallyは2人にとって最初の挑戦ではない。フィリップは以前、暗号資産のポートフォリオ管理アプリ「Delta」を作り、それが買収された経験があった。アプリを手放したあと、2人は「次は一緒に事業を作ろう」と決めた。
2020年2月、2人は「Hotspot」を始めた。ホテルと旅行インフルエンサーをつなぐマーケットプレイスだ。月の継続売上は約15万円($1,000)まで伸び、反応も悪くなかった。手応えが出てきたので、マリーは仕事を辞めてHotspotに集中した。
ところが、そこに新型コロナが来た。旅行が止まり、ホテルが止まり、市場そのものが消えた。最初は「数か月で戻る」と思って待ったが、状況は変わらない。流行が始まって半年ほどで、2人は次に進む決断をした。Hotspotは顧客を失い、収入もほとんど生まれなくなっていた。
フルタイムで挑戦してもお金が入らない。精神的にもきつい。そこで2人は、もう一度ゼロから「今、自分たちが作るべきもの」を考え直した。
いつも使っていたのに、好きになれない道具があった
たどり着いたのが、ノーコードで使えるフォーム作成ツールだった。
フォームは、仕事でも事業でも何度も必要になる。問い合わせ、申し込み、アンケート、決済。だが当時のツールは、使っていて楽しいものが少なかった。しかも、若いスタートアップには価格が重いものも多い。
「気持ちよく使えて、手が届くフォームを作れないか」
2人はそこにチャンスがあると気づき、Tallyを作り始めた。
無料で広がる仕組みで、競争の激しい市場を突破した
フォーム作成ツールの世界は競合だらけだ。だがそれは、必要としている人が多い市場でもある。
Tallyが目立てた理由のひとつは、無料で使える範囲を思い切って広くしたことだった。フォーム数も回答数も、基本は無制限で無料。ここまで無料にする競合は多くない。
公開直後、この無料モデルが広告費なしで利用者を集める力になった。さらに使った人は、もうひとつの違いにも気づく。画面がすっきりしていて、白い紙に文章を書くようにフォームを作れる。ドラッグ&ドロップ中心のツールとは感覚が違い、そのシンプルさが評価された。
一般公開の前、2人は友人や家族に試してもらい、感想を集めた。その後マリーは、似た商品を出している人や、フォームが必要になりそうなスタートアップ創業者を探し、何百人ものリストを作った。連絡先を見つけては、ひとりずつメッセージを送り、試して感想をもらった。
この地道な動きを数か月続け、最初の500人の利用者に到達した。
初期はとにかく改善の連続だった。感想を集め、直し、また出す。その過程で小さなコミュニティも育ち、初期ユーザーの中から強い応援者も生まれていった。
さらにTallyは、事業の裏側もできるだけ公開した。学んだこと、新機能の計画、作り方、売上の状況。隠さず共有する姿勢は、スタートアップや個人クリエイター、小さな会社と相性が良かった。
2021年3月、Tallyは新サービス紹介の場に登場し、1日で利用者が2倍になった。そこから成長は毎月のように続く。
フォームは作ったあと誰かに共有するものだ。つまり、もともと広がりやすい。しかも無料なので、フォームの下にTallyの名前が見える表示を入れた。回答する人もTallyに触れる。プロダクト自体が広告になり、新しい利用者がまた増える流れができた。
無料が多いのに、どうやってお金を生むのか
Tallyの利用者の多くは無料で使う。そこで2人は、回答数が増えたら課金が増えるような形にはしなかった。代わりに、チームや会社向けの追加機能を月額で提供した。
有料プラン「Tally Pro」では、たとえば次のような機能が使える。
- チームでの共同作業
- フォームの見た目のカスタマイズ
- Tallyのブランド表示を消す
- 決済フォームで手数料を取らない設定
多くの人にとっては無料で十分だが、全部必要な人は月約4,500円($29)で申し込める。利用者全体のうち約3%が有料に移行し、約5万人の利用者のうち約1,200人が支払っている。これにより、月の継続売上は約450万円($30,000)になり、事業として安定して回り始めた。
一緒に暮らし、一緒に働くと、境目が消える
2人はHotspotやTallyの前から、いつか一緒に会社を作りたいと思っていた。世界を旅しながら働く生活にもあこがれていた。得意分野が分かれているのも強みだった。マリーはマーケティング、フィリップは開発。役割がぶつかりにくい。
挑戦を決めたとき、2人はこう考えた。「まずは1年だけ本気でやる。うまくいかなければ仕事を探せばいい」。期限を決めることで、不安を小さくできた。
現在のチームは基本的に2人だけで、開発から顧客対応まで全部を回している。だが夫婦で同じ会社を運営すると、仕事と私生活の境界が溶けやすい。気づけばいつでもTallyの話になり、頭の切り替えが難しくなる。
そこで2人が特に大事だと学んだのは、責任範囲をきっぱり分けることだった。
フィリップがプロダクトの決定を持ち、マリーはそれを信頼する。マリーがマーケティングや営業、広報を持ち、フィリップはそれを信頼する。担当の「持ち主」をはっきりさせると、同じ問題に2人で入り続けて消耗することが減る。
さらにコロナ禍の間に子どもも生まれた。以前のように長時間働くのは難しくなり、家族の時間と事業運営を両立する必要が出た。結果として働き方は日中中心になり、朝と夕方は家族の時間にしやすくなった。
Tallyは2周年を迎え、次の段階も見えてきた。顧客が増えるほど、2人だけでは手が足りなくなる。目の前の作業に追われ、長期の戦略を考える時間が削られていく。そこで年内の目標として、最初の社員を採用し、顧客対応やプロダクト開発を助けてもらう計画を立てた。
資金調達しないという選択
2人は最初から、投資家のお金に頼らず進める会社を思い描いていた。マリーには約10年働いて貯めた貯金があり、フィリップには前の事業を売却した経験がある。この余裕があったから、生活費を払いながら1年ほど新しい挑戦を試せた。
しかもTallyは早い段階から利益が出た。大きな自己資金を追加で入れなくても回る。これは意思決定を強くした。無料で使える範囲を広くする判断も、余裕がなければ難しかったかもしれない。すぐにお金が入る形に寄せざるを得ず、別のサービスになっていた可能性もある。
起業を考えるなら、数か月から1年ほど利益が出なくても耐えられる予備資金を持つことは、大きな助けになる。
一般公開後、投資家からの関心も集まった。資金調達をしないと「野心がない」と見られるのでは、と悩んだこともある。だが最終的に2人は、今の生活スタイルが気に入っていて、資金調達をするとそれが変わる可能性が高いと考えた。
投資家がいなければ、いつどこで働くかも自分たちで決められる。顧客にとって良いと思う方向へ、自由に舵を切れる。売上も毎月伸びている。外部の助けがなくても拡大できるという自信もあった。
目標は、巨大な組織を作ることでも、超大企業になることでもない。家族に合う形で、無理なく長く続く事業を作ること。Tallyはその形を、2人の手で少しずつ固めていった。
