医療の現場では、治療そのものだけでなく、予約・記録・請求・会計といった事務作業が積み重なる。紙や電話、請求書に追われ、目の前の患者に集中したくても時間が削られていく。
そんな「変わりにくい世界」に、少人数のチームが挑んだ。最初の挑戦は失敗し、2年間活動が止まった時期もある。公開後の3年間も利用者はなかなか増えず、収支はぎりぎりだった。
それでも試行錯誤を重ね、いまではドイツ・オーストリア・スイスで約1,200の施設に導入され、2021年には1,900件以上の問い合わせに平均3分で返信できる体制を整えた。小さなチームが、どうやって医療の「当たり前」を少しずつ動かしてきたのか。
医師やセラピストを、紙と電話と請求書から解放する
新興企業が古い業界の常識を変えようとする話はよくある。金融は早くからITが浸透し、仕事のやり方が大きく変わった。一方で医療は、変化の起きにくい世界として残り続けていた。
オーストリア生まれのappointmedは、その医療現場を少しずつ変えようとしている。狙いはシンプルで、医師やセラピストが事務作業に費やす時間を減らし、患者と向き合う時間を増やすことだ。
外科医、心理療法士、作業療法士、オステオパシーの施術者、栄養士——こうした人たちの仕事は治療だけでは終わらない。予約を入れ、患者の記録を残し、請求書を作り、会計をまとめる。現場を回すための作業が山ほどある。
appointmedはそれらをブラウザで動くソフトとして一括で扱えるようにした。スマホでもタブレットでもノートPCでも使えるため、場所を選ばず仕事を進められる。
現在、ドイツ・オーストリア・スイスで約1,200の施設が利用している。チームはわずか5人。それでも2021年には1,900件以上の問い合わせに対応し、平均返信時間は3分だったという。2022年には創業6年目を迎えた。
2人の再会から始まった
中心にいるのは、共同創業者でCEOのパトリック・インツィンガーだ。子どものころからものづくりが好きで、13歳で作ったウェブサイトを売った経験がある。その後はプロダクトデザイナーとして長く働き、スタートアップの立ち上げ支援や海外案件にも携わってきた。
もう一人の共同創業者がベルンハルト・ケプト。技術に興味を持ち、のちにコンピュータ工学を学んだ。パトリックがUI/UXデザインの道へ進み、ベルンハルトが開発側へ進む形で別々のキャリアを歩んだ2人は、のちに再会してフリーランスの仕事で一緒に動くようになる。
2013年、2人は新たな挑戦に向けてアイデアを練り始めた。パトリックは「使いやすさ」と「見た目」を徹底的に追求する役割を担い、ベルンハルトはCTOとしてデータの安全性やシステムの基盤を固める役割を担った。
そこにクリストファー・スプニグがフロントエンド開発で加わり、マリオ・ハーベンバッハーがマーケティングと営業を担当。役割がそろい、チームの形が整った。
一度失敗して、2年間止まった
このチームは、最初から医療を目指していたわけではない。2009年には金融分野のスタートアップにも挑戦したが、うまくいかなかった。金融は人脈がものを言う世界で、入り口に立つことすら難しかった。
2011年、計画を一旦止めた。2年間の空白ができた。
それでもチームの相性は良く、次の勝負どころを考え続けた。出た答えが医療だった。簡単な業界ではないが、自分たちの強みを活かせる可能性があると感じた。
ヨーロッパの医療現場では「使いやすさ」を重視した改善がまだ十分に進んでおらず、アメリカのほうが先を行っている。特にドイツ語圏の市場は伝統が根強く、ITの発想を持ち込むだけでも新鮮な挑戦になった。
加えて、医療向けソフトの多くは古いまま更新が止まり、新しい製品が出ても現場が求める品質に届いていないケースがあった。そこにまだ空きがあると見えた。
最初の案は「予約サイト」だった。でも違った
appointmedの最初のアイデアは、患者がネットで予約できるシンプルな予約サイトだった。試作品を作り、医師やセラピストに見せてフィードバックを集めた。
返ってきた言葉はこうだった。「便利そう。でも本当に困っているのはそこじゃない」
現場が求めていたのは、予約だけでなく、運営全体を楽にする仕組みだった。紙とペンで管理し、記録を箱に入れて保管しているような施設もある。予約をネット化しても、他の作業が重いままでは結局ラクにならない。
そこで方向転換した。予約単体のサービスではなく、診療所や治療院の業務をまるごと支えるサービスへと舵を切った。
完成まで2年、公開後3年は苦しかった
試作品を何度も作り直し、2年かけて初期版を完成させた。2016年、会社として正式に設立した。
しかし公開後の3年間は厳しかった。利用者はなかなか増えず、収支もぎりぎり。理想と現実の差は大きかった。
集客のためにできることはすべて試した。メール営業、電話営業、チラシ配り。それでも思うような結果は出なかった。
転機は2018年。サイトをリニューアルし、検索で見つけてもらえるよう改善した。必要な人に届くようになり、状況が変わり始めた。
伸びた理由は「紹介」だった
もう一つの追い風になったのが口コミによる紹介だ。使って満足した人が同業者に勧める。医療の世界では、この流れが特に強い。
appointmedには専用の仕組みがある。登録から約100日が経つと、知人への紹介を促す通知が届く。紹介先が契約すると、小さな特典がもらえる。
なぜ100日なのか。使い始めて約3か月のころが機能の良さを実感しやすく、満足度も高まりやすいと判断したからだ。
結果として、利用者自身がブランドを広める役割を担うようになった。2019年から事業は伸び始め、成長の約70%が既存利用者からもたらされるようになった。有料広告に大きく頼ることなく、過去3年間は毎年売上が倍増しているという。
「必要な機能」は現場が教えてくれた
プロダクト開発においても、チームは利用者の声を重視した。自分たちの知識だけでは限界がある。現場が本当に必要なものは、現場が一番よく知っている。
試作品のテストに利用者を参加させ、出てきた意見を新機能へとつなげていった。派手なアプローチではないが、医療のように慎重さが求められる世界では、この地道な積み重ねが効いた。
副業で続けるのは、想像以上に難しい
創業初期、メンバーたちはフリーランスの仕事や別事業と並行しながらappointmedを進めていた。パトリックはスタートアップ支援や海外の仕事を続け、最初の4年間はそれが主な収入源だった。
少しずつ本業へ移行していったが、簡単ではなかった。全員が生活できるだけの売上を会社が生み出せるようになるまで待つ必要があったからだ。技術分野で安定した収入があった分、切り替えには時間がかかった。
副業状態では優先順位の問題が必ず生じる。別の仕事が忙しくなると、appointmedに割ける時間が足りなくなる。だからこそチームは、小さな成果をきちんと祝うようにした。体験登録が入ったとき、新規契約が決まったとき——そのたびを節目として認め、モチベーションをつないだ。
資金調達に頼らないと決めた
創業者たちは当初、約6か月間、資金調達を試みた。しかしうまくいかなかった。ヨーロッパでは、出資額が小さいにもかかわらず多くの株式を求められることがある。条件が折り合わなかった。
投資家からは「まず製品を作ってから話そう」と言われたが、創業者側は「製品を作るために資金が必要だ」と感じていた。話がかみ合わなかった。
そこで外部資金に頼らず、自分たちの貯金で進める道を選んだ。インフラ費用、初期の支払い、外部協力者への依頼——必要なところにだけお金を使い、最初のバージョンを形にした。
その結果、事業は100%自分たちの手元に残った。投資家の顔色ではなく、利用者の声を見る会社になった。
小さなチームのまま、強くなる
appointmedはチームをできるだけ小さく保つ方針を取ってきた。SaaSは固定費が比較的低く、社内作業も自動化しやすい。人を増やす前に仕組みで回るようにする——そうやって持続的に成長できる形を目指してきた。
働き方もリモート中心で、感染症の流行より前からその形を選んでいた。各自が集中できる場所で働けるため、コストを抑えながら生産性を上げられる。メンバーの多くはウィーン周辺に住んでいるが、必要に応じて別の場所で働く自由もある。
医療の現場を、少しずつ現代に近づける
5人という小さな体制でも、医療現場にクラウドSaaSの価値を伝え続けてきた。クラウドを使えばデータの安全性への不安を軽減でき、バックアップの心配も機器の管理負担も小さくなる。診療所や治療院を現代的な環境に整えることに、致命的なデメリットはない。
次に見据えているのは、外部の開発者が機能を追加できる世界だ。appointmedを、医師やセラピスト向けの「業務の中心」にしていく。紙と電話と箱の記録から、少しずつ人を解放するために。
