「大企業向けは面倒だ」。SaaSをやるほど、そう感じる場面は増える。特別対応が増えれば仕組み化は遅れ、チームは疲弊する。だから多くの起業家は、料金プランに収まらない依頼を避けたくなる。
しかしIPアドレスのデータを提供するIPinfoは、逆の手応えをつかんだ。品質の高いデータには、大企業がきちんと対価を払う。そしてその一件が、会社の成長の方向を変えていく。
「断るつもり」で出した月約15万円($1,000)の見積もりが、即決で通った。なぜそんなことが起きたのか。小さなAPIから始まったIPinfoが年間数百万ドル規模(約数億円規模)まで育つ過程とともに振り返る。
良いデータには、大企業が金を払う
SaaSは、できるだけ自動で回る仕組みを作り、少ない手間で利益を伸ばすモデルだ。だから多くの起業家は、料金プランに収まらない特別対応を嫌う。仕組み化が遅れてチームが疲れるからだ。
しかしある起業家は、逆の発見をした。「大企業は、良いデータのためなら高く払う」。その気づきが、会社の成長のかたちを変えた。
主人公はベン・ダウリング。瞑想アプリCalmの元CTOで、IPアドレスの情報を返すサービスIPinfoを立ち上げた人物だ。小さなAPIから始まったIPinfoは、今やIPデータの有力な提供元として知られる。社員は約20人、売上は年間数百万ドル規模(約数億円規模)まで成長した。
投資家のいる世界から、自力で稼ぐ世界へ
ベンは10年以上、開発者やCTOとしてスタートアップで働いてきた。資金調達を受けた会社も多かった。
そんな彼が次に選んだのは、投資家に頼らず自分の売上で育てるやり方、いわゆるブートストラップだった。
それでも長く続く会社を作るのが難しいことは、身に染みて知っていた。自力で立ち上げても、うまくいったら売って終わり。あるいは疲れてやめて、会社員に戻る。そんな例を何度も見てきた。
だからベンは、短距離走ではなく長距離走の会社を作りたいと思った。
Facebookの仕事の裏で、小さく始まった
ベンはFacebookで働きながら、空いた時間に小さな開発を続けていた。その中の一つがIPinfoになった。
職場ではIPアドレスの情報が必要になる場面が多かった。ところが、開発者がすぐ使える形のAPIはほとんど存在しなかった。そこでベンは、複数の情報源を集めて整理し、使いやすいAPIにまとめた。
Stack Overflowに投稿すると反応があり、使う人が増えた。ベンは「これはビジネスになる」と感じた。
2014年にFacebookを離れてCalmのCTOに就いた後も、IPinfoはやめなかった。通勤電車の中で問い合わせに返信し、夜に改善を続けた。
やがて問い合わせが増えすぎ、CalmとIPinfoのどちらかに集中しなければ回らなくなった。
2016年にCalmを辞めた時点で、IPinfoの売上はすでに給与を超えていた。先は読めない。それでもベンはIPinfoに賭けることを決めた。
最初の1年はほぼ一人で回した。開発もマーケティングもサポートも自分でこなし、足りないところだけ外部の協力者に頼った。少しずつパートタイムの仲間を増やし、やがてフルタイムのチームへと育っていった。
広まった理由は、評判と検索だった
IPinfoが知られるようになった大きな理由の一つは、Stack Overflowでの活動だ。ベンはもともと信頼される回答者だったため、IPデータを探す質問が出ると自然に自分のAPIを紹介できた。
もう一つの柱はSEOだった。通信会社やIPに関するページを大量に作り、「自分のIPアドレスは何か」といった検索で上位に表示されるよう取り組んだ。
ただ、このSEOは別の問題も招いた。アクセスは増えたものの、顧客ではない人からの連絡が増えすぎたのだ。IPinfoをインターネット会社と勘違いして通信トラブルを相談する人が現れたり、海外で特定のサービスが遮断されるとなぜかIPinfoに電話が来たりすることもあった。
チームは方針を変えた。サービス内容をページ上でより明確に説明し、問い合わせのハードルを上げた。問い合わせボタンを消し、簡単には連絡できない設計にした。
少し不便になっても、本当に必要な顧客は離れない。そう確認できたからだ。
集客の流れは整った。しかしフルタイムで取り組み始めた最初の1年は、期待したほど伸びなかった。時間は増えたのに、成長のスピードは変わらない。ベンは落ち込んだ。
それでも改善を積み重ねると、やがて伸び始めた。次の大きな転機は2つあった。専任の営業担当を雇ったことと、自分たちでデータを集め始めたことだ。
IPアドレスに「文脈」を足す仕事
IPinfoが売っているのは、IPアドレスそのものではない。IPアドレスに「文脈」を付加するデータだ。
たとえば、そのIPがどこから接続しているか、回線の種類は何か、VPNやプロキシか、どの会社の回線か。そういった付加情報をAPIで返す。
代表的なのは位置情報データだ。IPアドレスを渡すと、シアトルの住宅なのか、サンフランシスコのオフィスなのか、といった場所を推定できる。
ただ、VPNが普及すると位置情報だけでは不十分になる。見かけの場所が変わってしまうからだ。そこでIPinfoは、VPNかどうか、どの通信会社かといった情報も充実させていった。
顧客層は幅広く、サブスクリプション利用者が約2,000社、大企業顧客が約250社。分野はサイバーセキュリティ、小売、広告関連が多い。
活用方法もさまざまだ。ログインユーザーの場所に合わせて表示を変える、攻撃元を調査する、不正アクセスの兆候を検知する、といった用途がある。
ここで重要なのは、同じデータでも価値が変わるという点だ。登録フォームを少し便利にするためのデータと、不正を防いで大きな損失を食い止めるためのデータでは、払える金額がまるで違う。だから価格設定も一筋縄ではいかない。
ベンが軸に置いたのは2つだけだった。データの品質を高く保つこと、そして顧客が使いやすい形で届けること。この考えが、IPinfoの方向転換を生んだ。
断るつもりの値段が、即決で通った
IPinfoは当初、外部のデータを集めてまとめるサービスだった。しかし数年経つと「データの質が良くない」という声が増えた。
そこでベンは、自分たちで位置情報データを作る方向へ舵を切った。今では業界でも上位に入る品質になったという。
自社でデータを集め始めると、大企業からの問い合わせが増えた。ベンは当初、大企業向けの営業を避けたかった。会議が増え、要望も多く、手間がかかるからだ。電話会議を求められても「クレジットカードで通常プランを購入してほしい」と伝えていた。
しかし、ある問い合わせがベンの考えを変える。相手は特別な機能を求めていた。正直対応したくなかったベンは、「これなら断れるだろう」と高めの金額を提示した。月約15万円($1,000)だ。
相手は迷わずOKした。
その瞬間、ベンは理解した。大企業は追加の価値にもっと払える。金はあるが時間がない。だから金で時間を買う。
これを機にIPinfoは、大企業向けの可能性を真正面から考えるようになった。良いデータを作るほど必要とする会社は増え、その会社はきちんと払う。
規制の時代が、追い風になるかもしれない
ベンは今後、IPアドレスに対してさらに多くの文脈データを付加していく考えだ。より細かい位置情報や、接続の種類に関する情報などが候補に挙がっている。
世界ではデータ収集への規制や監視が強まっている。しかしそれが逆に機会になる可能性もある。
たとえばEUの規制により、広告業界が使ってきたクッキーや端末IDが使いにくくなれば、個人を強く特定しない一般的なデータへの需要が高まるかもしれない。IPデータはその有力な選択肢になり得る。
ベンが他の起業家に伝えたいのは、大企業向けの機会を真剣に考えろ、ということだ。開発の負担は増えやすい。だが利益も大きい。良い解決策には金が出る。研究開発の費用を顧客に負担してもらえる形にもなり、新しい製品づくりのリスクが下がる。
投資家に頼らない事業では、キャッシュフローを作ることが何より重要だ。利益を増やすために行った変更が、振り返れば「結局やるべき改善だった」というケースも多い。IPinfoの成長は、その典型として語られている。
