ひとつのサービスを形にするだけでも、起業は体力を削る。資金集めや採用、開発、マーケティング。どれかが止まると、前に進めなくなる。
そんな停滞や不安の中で、ジョン・ラッシュは「遅い開発」という壁そのものを作り替えようとした。結果として、森の中からでも事業を回し、黒字のスタートアップを24個まで増やしていく。
どうやって少人数で、しかも利益が出る形に持っていったのか。鍵になるのは、自分のために作った開発の仕組みと、遠回りに見える過去の積み重ねだった。
森の中で、24個の黒字スタートアップを動かす
トルコのイスタンブール近くの森。ジョン・ラッシュはノートパソコンを開き、静かな朝の空気の中で仕事を始める。
ジョンがやっているのは、スタートアップを同時にいくつも動かすこと。ただ多いだけではない。どれも黒字で回っている。数は24個。次は100個、その先は1,000個を目指している。
たいていの起業家は、ひとつのサービスを形にするだけでヘトヘトになる。なのにジョンは、次々と新しい事業を立ち上げ、利益が出るところまで持っていく。そのスピードの理由は、自分で作った開発の仕組みにある。
名前は「MarsX」。テンプレートを土台にして、数週間でオンライン事業を組み立てられるという。ジョンにとってMarsXは、便利なツールというより「事業を増やすためのエンジン」だった。
MarsXで作った仕組みの中には、世界中の映画館で使われているものもある。ただし、それがどんなサービスかを誰でも見られる形では出していない。ほかにも、大きな資金を持つ競合と戦いながら伸びている事業もある。
驚くのは体制だ。多くの事業は、ジョンとリモートのプログラマー1人、たった2人で回してきた。派手な広告ではなく、マーケティング用の小さなツールや、地道なSNS発信で少しずつ伸ばしていった。
しかもジョンは、裏側を隠さない。起業家がこっそり開発するのが普通なのに、ジョンはSNSで作り方や数字の話までかなり具体的に出す。スピード勝負を支えているのは、MarsXのような道具があるからだとジョンは言う。
ジャガイモと引き換えに手に入れたパソコン
ジョンは山の中の小さな村で育った。住民は約500人。村には独自の言葉があり、暮らし方も昔ながらだった。ジョンは8歳になるまで「電気」というものを知らなかったという。
父は村の発明家だった。村のトウモロコシを粉にする機械を作り、のちには大きなアンテナを立てて、家々のラジオがよく聞こえるようにした。
電気が通るようになると、ジョンは壊れたテレビの部品を集めて分解し、仕組みを理解しては作り直した。直して売るより、「同じものを何度でも作れる形」にして売るのが好きだった。モーター付きの小さな車、ラジオみたいな装置、簡単な部品だけで遠くまで届くレーザーまで作った。
13歳のとき、父は条件付きでパソコンを買うと約束した。畑仕事を手伝い、決められた量のジャガイモを収穫できたら、という取引だった。
ジョンは何か月も必死に働いた。父は約束を守り、デスクトップパソコンを持ち帰った。その瞬間から、ジョンの生活の中心はパソコンになった。
村にはまだインターネットがない。入っているソフトもほとんどない。できることが少ないからこそ、ジョンはプログラミングを始めた。付属の説明書を読み、ゲームを自作したい一心でコードを覚えていった。
ただ、村の中だけでは限界もあった。中古の携帯電話を売買しようとして、地元の危ない連中とトラブルになったこともある。外の世界を知るには、村を出るしかない。そう考えるようになった。
ジョンは月に1回、バスで近くの町へ行き、インターネットカフェで1時間だけネットを使った。ある日、ノルウェーとドイツの大学に応募した。期待していなかったが、翌月カフェでメールを開くと、ノルウェーのハルデンにある学校のプログラムに合格していた。そこから人生が動き出した。
学生なのに先生より稼いだ「代行ビジネス」
ノルウェーのハルデンは、ジョンが育った村より少し大きい程度の町だった。いきなり大都会に放り込まれるより、環境の変化がちょうどよかったという。授業は英語で、先生たちは留学生に丁寧だった。
ジョンは授業だけで満足しない。学内の別の講義やセミナーにも出続け、家では寝るだけの生活になった。
そこで最初のビジネスの種が見つかる。ジョンはプログラミングが得意で、ほかの学生の課題を手伝うことが多かった。頼まれる回数が増えるうちに、ジョンは仕組みを作った。
「Rush Studio」。課題を代わりにやってほしい学生と、作業できる学生をつなぐ場だ。
ただし最初のころ、仕事の大半はジョンが背負った。1年で1,000件の課題をこなし、博士論文の一部まで手伝った。睡眠は最大でも4時間。目はいつも赤かったという。
2010年、ジョンは燃え尽きる前に形を変えた。優秀な学生を雇い、自分は売上の半分を受け取る仕組みにした。これで他大学にも広げられ、やがて週の稼ぎが教授の年収を超えるほどになったとも言う。
ただ、このビジネスは「課題の不正」に加担している面があった。ジョンは最後に事業を競合へ売り、データも含めて手放した。売却額は巨大ではないが、学生の寮生活なら長く暮らせるだけの金になった。そして大企業に就職するより、スタートアップの道へ進むための土台になった。
VC型スタートアップで知った「利益より巨大化」
学生と事業を両立していたころ、ノルウェー政府が国内初のスタートアップ向けインキュベーター「Startup Lab」を作る話が広まった。プログラマーが必要で、ジョンはスタートアップを作りたかった。
ジョンはハルデンからオスロまで、片道2時間の電車移動を何度も繰り返して働いた。2010年には、Rush Studioを売った資金も後押しとなり、学業よりスタートアップに集中するため学校を離れた。学位は後で取るつもりだったが、結局取らなかった。
2011年、ジョンはいくつかの事業案を投資家に提案した。返ってきたのは冷たい評価だった。「投資家が望むほど急成長しない」。開発だけでなく、マーケティング、拡大、収益化まで理解しないと勝てないとも言われた。
そこから2017年まで、ジョンは週100時間働くような生活を続けたと語る。休日も週末もほとんどない。関わった事業は30社ほど。投資家、CTO、共同創業者など、立場もさまざまだった。
だが2015年ごろ、現実が見えた。VCから資金を集めたスタートアップの多くが、次々と崩れていく。ジョンは思った。小さな市場でもいいから、利益が出る形へ変えれば助かる会社もあるはずだ。
しかし、その提案は通らないことが多かった。共同創業者や取締役会が「巨大化」を優先し、利益を後回しにしたからだ。ジョンは、VCの仕組みは「利益」より「成長の見た目」を求めがちだと感じた。
ある会社では、倒産を避けるために自分の資金で3年間、社員の給料を払い続けたこともあったという。
7年目が終わるころ、多くのプロジェクトは縮小した。ジョンは燃え尽きたのではなく、むしろ独立して勝負したい気持ちが強くなった。資金集め、採用、設計、マーケティング、プログラミングまで、一通りできるようになっていたからだ。
MarsXは「開発が遅い」という問題への答え
2018年、ジョンはMarsXを考え始めた。狙いははっきりしている。ソフト開発にかかる時間を「12か月から12日へ」縮めること。
ジョンは、2009年ごろと比べてスタートアップの開発効率が落ちたと感じていた。昔は事業側が生産性重視で道具を選び、強いツールで短期間に作れた。ところが時代が進むと、開発者が道具選びの主導権を握り、「楽しいが非効率」な選択が増えた。結果として技術が細かく割れ、全体が複雑になった。ジョンはそう見ていた。
だからこそ、昔のように「速く作れる道具」を現代に戻したかった。低コードも高コードもAIもノーコードも試し、ひとつの形にまとめていった。
ジョンの考えでは、アプリは積み木みたいな部品の組み合わせでできている。ゼロから全部作らない。最初から基本部分のコードを用意しておき、残りを仕上げる。完成の9割を最初から持ち、最後の1割を作る感覚に近いという。
MarsXは段階的に使える。最初はテンプレートを組み立てるだけで進められる。人気アプリに似たひな型から始め、内容を変える。完成後は必要に応じてコードを書き足し、機能を増減できる。ノーコードで終わらず、独自コードへ移りやすいことが強みになる。
試作品ができたあと、ジョンは投資を受けようとして、ほぼ資金調達が決まりかけた。だが直前で立ち止まった。「なぜこれをやるのか」。そう自分に問い直し、投資家の金に頼らず、自分の利益で育てる道を選んだ。自由に方向転換できるからだ。
開発者に売れないなら、自分で事業を作って証明する
ジョンは1年間、開発者にMarsXを使ってもらおうとした。うまくいかなかったという。生産性が上がっても給料が上がるわけではないから、開発者にとって切実なメリットになりにくい。
しかも開発者は慎重だ。動作、利用者数、負荷への強さ、安全性、拡張性。細かい点を確かめ、納得するまで信用しない。ジョンはそう見ていた。
そこで方針を変えた。MarsXで自分の事業を作り、本物の顧客を集め、動く証拠を見せる。面倒な開発やマーケティング作業を自動化するSaaSを次々と立ち上げた。
代表例のひとつが、ブログ記事作成などを助け、検索からのアクセス増加を狙うAIアシスタント。その後もマーケティング作業を置き換えるSaaSを増やし、数か月で「外部協力者10人で回していた作業」を複数のツールで代替したという。
運営方針はシンプル。製品1つが会社1つ。製品ごとに開発者が1人付く。つまり、製品数と従業員数がほぼ同じになる。
ジョンはSNSで、製品も道のりも公開した。集まってきたのは開発者より、技術に強くない起業家だった。正直で透明な発信が信頼につながった。しかも同じ層に向けた製品が増えるほど、互いに宣伝し合う形になり、ひとつが伸びると別のサービスも伸びる流れが生まれた。
約1年で複数のアプリが立ち上がり、継続売上の合計は大きく伸びた。2024年1月までに24製品をそろえ、その月だけで大きな売上を上げたとも語られている。
MarsX自体への関心も、事業が増えるほど高まった。順番待ち登録者は7万人を超え、早期利用のために金を払いたいという申し出もあったという。
だがジョンは、MarsXを急いで売る必要を感じなくなっていく。事業群で利益が出ているからだ。収益を積み上げることが優先になった。そして、もっと大きな目標が生まれる。スタートアップ向けの「全部入りOS」を作ること。
Unicorn Platformと「スタートアップのOS」
2023年、ジョンはシンプルなランディングページ作成ツール「Unicorn Platform」を買収した。これを新しい構想の土台にした。使いやすい画面側の作成機能と、裏側で動くMarsXを組み合わせ、創業者がもっと簡単にサービスを作れる世界を狙う。
ジョンが変えたいのは、SaaSをバラバラに契約して、アカウントやパスワードを大量に抱える状況だ。支払い情報を登録し、ページを作り、必要な道具をワンクリックで使えるようにする。統合された環境の中で、利用者自身がSaaSを作り、互いに連携できる。そんな仕組みを描いている。
ジョンは、低コード化が進むこれからの時代、「未来の創業者」は開発者というより、物語を語れてマーケティングができ、たくさんの道具を使って裏側を運用できる人になると考えている。AIでマーケティングが自動化されると言われるが、本気のマーケティングは簡単に自動化できない、とも言う。
さらにジョンは、スタートアップは共同創業者を増やすより、1人の創業者で動かした方が生産性が高いと考える。1人なら頭の中で決められることも、複数人だと話し合いに時間がかかる。ジョンの道具は、その1人運営を現実に近づけるためのものでもある。
自然のそばに「起業家の村」を作る夢
ジョンは製品づくりだけでなく、コミュニティにも関心がある。意外にも、最後は村のような暮らしに戻りたいという。農家の村ではない。自己資金で事業を育てる起業家が集まる村だ。
イスタンブール近郊の森で小さなグループはすでに始めているが、地域の情勢もあり移転を考えている。MarsXの共同開発者には、新しい場所に住む権利を約束しているとも語られる。
静かな自然の近くで暮らしながら、ネットで何かを作りたい人は多い。ジョンはそう見ている。ただ、大きな共同体を作るには土地を買い、村を作る資金が必要になる。そのために月次の売上目標も掲げている。
ここまでを振り返って、ジョンが強く思う後悔はひとつだけだという。自己資金で育てるやり方を、もっと早く始めればよかった。
かつては、苦しいスタートアップを助けるために自分の資金を何年も使った。だが今は、市場が必要としていないなら無理に延命させないという考えに変わった。事業が消えるのは、市場からの答えだ。ジョンはそう捉えている。
