手元の金は100ドルにも満たない。大学をやめ、家族にも本当の目的を告げずに街を出る――そんな不安定な状況から、ガウラブ・ナガニの挑戦は始まった。
月50ドルの給料で、床掃除でも何でもこなす。期限付きで渡された500ドルを使い切ったら終わり。迷いながらも「今すぐ役に立つスキル」を選び、目の前の仕事を一つひとつ積み上げていった。
やがて、WhatsAppだけでは回らなくなる現場の限界を何度も目の当たりにする。そこから生まれたプロダクトは、ほぼ宣伝なしでわずか3か月でARR2万2000ドル(約330万円)に到達した。何が転機になったのか。その軌跡をたどる。
WhatsAppだけのサポートは、いつか破綻する
インターネットがあれば、どこに住んでいても勝負できる時代になった。だが、チャンスは自然と形にはならない。形にするには、腹をくくって動くしかない。
インドのグジャラート州で育ったガウラブ・ナガニは、2014年に大学をやめた。手元にあった金は100ドルにも満たない。将来が保証された道より、今すぐ役に立つスキルがほしかった。だから、プログラミングを学ぶために地元を出ることにした。
向かったのは近くの都市ラージコート。家族には「休暇に行く」とだけ言って家を出た。本当は、そのまま戻らずに働くつもりだった。
就いた仕事は、女性向けの伝統衣料を扱う新興EC会社。給料は月50ドル(約7,500円)で、床掃除でも何でもやった。条件はきつい。それでもガウラブにとって、コンピューターに触れられる環境さえあれば十分だった。
同じ年、地元の学校でウェブ開発コースも受けた。そこでダルシャン・タンクと出会う。この出会いが、後の人生を大きく変えることになる。
研修が終わるころ、父から連絡が来た。「そろそろ家に戻って働け」。ガウラブは迷ったが、都市に残ることを選んだ。父は無理に引き戻さなかった。その代わりに500ドル(約7万5,000円)を送り、「使い切ったら帰ってこい」と言った。期限付きの挑戦が始まった。
月60ドルで暮らす「中流」の重さ
ガウラブは中流家庭で育った。母は家を守り、父はダイヤモンドの加工業で働いた。
ただ、ここでいう「中流」は、多くの人が想像するものとは違う。家族4人が狭い部屋で暮らし、月60ドル(約9,000円)ほどで生活することもある。余裕があるわけではない。だからガウラブは子どものころから、家族を支える責任を強く感じていた。
100ドル以下から、年20万ドルの開発会社へ
2015年、ガウラブとダルシャンは受託のモバイル開発事業を立ち上げた。社名はthirstyDevs。オフィスは月60ドル(約9,000円)ほどの小さな部屋で、机と椅子があるだけの場所だった。
外部資金には頼らず、目の前の仕事を確実に取り、着実に積み上げていった。その結果、約5年で事業は年間20万ドル(約3,000万円)規模に成長する。
追い風もあった。コロナ禍以降、インドではDTCブランドが増えた。メーカーが仲介業者を挟まず、ネットで直接販売するブランドだ。2人の会社も自然とDTC向けの開発にシフトしていった。
だが、DTCの現場には大きな穴があった。カスタマーサポートだ。
多くのブランドは、サイトにWhatsAppのボタンを設置し、DMで問い合わせ対応をしていた。インドではWhatsAppが生活に欠かせないツールになっている。相手が数十人なら何とか回る。
しかし、客が数千人、数万人と増えた瞬間に崩れる。少人数のチームがDMだけで対応すると、返信漏れが起きる。担当が変わって話がずれる。誰が何を対応したか分からなくなる。成長スピードが上がるほど、この問題が致命的になる場面をガウラブは何度も目にした。
ZendeskやZohoといった有名ツールを勧めたこともある。だが、そうしたツールは大企業向けの設計になっていることが多く、設定が複雑で運用にも専門知識が必要だ。小さなECチームには荷が重すぎた。
なら、自分たちで作るしかない。素早く動けて、少人数でも拡張できる仕組みを。
ドラッグ&ドロップで作れるチャットボット
こうして生まれたのがDeskuだった。最初はthirstyDevsの社内ツールとして開発した。クライアントからの問い合わせを一か所に集め、検索できるようにし、開発チームがすぐ回答できるようにするための道具だ。
効果はすぐに表れた。WhatsAppで同じ説明を何度も繰り返す手間が減り、時間が生まれ、ミスも減った。
使い勝手は口コミで広まり、紹介を受けたユーザーがオフィスまで足を運ぶこともあった。ガウラブとダルシャンは確信した。これは社内ツールで終わらせるべきじゃない。
2021年12月、2人はドラッグ&ドロップで作れるチャットボットと、よくある質問をまとめるナレッジベースの仕組みを整え、サブスクリプションとして提供する準備を進めた。
Deskuの強みは、ナレッジベース、ライブチャット、チャットボット、ヘルプデスクを一つの画面で扱えることだ。複雑な設定が少なく、専門家がいなくても自動化を進めやすい。うまく活用すれば、1人で1日150人分の対応をこなせることもある。
宣伝ほぼゼロで、3か月でARR2.2万ドル
2022年3月、Deskuは有料版を初めて公開した。
結果は早かった。ほとんど宣伝をしないまま、わずか3か月で年間継続売上(ARR)2万2000ドル(約330万円)に到達した。
買収の打診も2件来たが、2人は断った。売るより先に、伸ばしたかったからだ。それに、外から「買いたい」と言われたことで、プロダクトとしての価値が改めて明確になった。スタートアップ自体が少ない地方都市から作ったプロダクトが、外の世界に届いた。その事実が、次の一歩を踏み出す根拠になった。
次はCRMへ。ただし急がない
2人はDeskuをCRM領域へ広げることも視野に入れている。CRMは顧客情報を管理し、売上やサポートに活かす仕組みだ。難しいと思われがちだが、市場は長期的に成長を続けている。
ただし、無理な急拡大はしない。チームはまだ小さく、メンバーの多くは受託開発の仕事も続けている。開発会社の運営は管理者に任せながら、2人はDeskuの方向性を慎重に見極めていく。
ガウラブが大切にしている考えはシンプルだ。早い段階で始め、早い段階で直すこと。完璧を待つより、現場で修正するほうが速い。
もう一つ、ガウラブはこうも思っている。初期の段階で適切なメンターを見つけることが重要だ、と。もし早い時期に的確なアドバイスを得られていたら、Deskuは今の何倍にも成長できたかもしれない。そういう悔しさも残っている。
家族は息子の挑戦を喜んでいる。ただ、具体的に何をしているかは完全には理解していないらしく、周囲には「コンピューターで何かやっている」と説明されることが多いという。
それでも、月50ドル(約7,500円)で床を掃除していた若者が、地方都市からSaaSを立ち上げ、世界に届く入口を作った。WhatsAppのDMが限界を迎える瞬間を、見逃さなかったからだ。
